大連世界旅行社


1904年後期


9月1日
与謝野晶子が明星に、旅順に従軍の弟、鳳壽三郎を案じ「君死にたまふことなかれ」を掲載。
9月4日
第1、2軍遼陽占領、満州軍総司令部、大連、蓋平から遼陽(煙台)へ移す。
9月18日
児玉柳樹房司令部を訪れる。
9月19日
203高地攻撃始まる(第1師団、東京)。

乃木は203高地と3大堡塁の2面作戦を開始する。

9月20日
水師営南方堡塁占領(第1師団、東京・麻布)、写真3-1-1戦碑は現在ありません、東京麻布3連隊が活躍、写真3-1-2、現在の写真。

南山坡山
9月20日
南山坡山(なまこ山)堡塁占領(第1師団、東京・高崎)、写真3-1-3写真3-1-4写真3-1-5現在の写真、2人は当社ガイドです。写真3-1-6南山坡山撮った旅順港、写真3-1-7現在の写真。ここから十分に旅順港を見渡せる。

大頂子山、南山坡山(なまこ山)は車から1時間位歩きます。雑草・木、虫等の為、10月〜4月にしか行けません。

龍眼北方(クロバトキン)堡塁
9月20日
龍眼北方堡塁占領(第9師団、敦賀・鯖江)写真3-1-8写真3-1-9現在の写真、土台が残っています。他の旅行会社では行くことが出来ません(知りません)
9月28日
火石嶺の海軍陸戦重砲隊、攻城山の203高地・大案子山・小案子山・椅子山の砲撃開始。写真3-1-10現在の写真。
10月1日
28インチ砲導入(18門設置)弾薬は217kg、写真3-1-11写真3-1-12弾薬、写真3-1-13映画二百三地。写真3-1-14写真3-1-15写真3-1-16團山子の28インチ砲台。

現在、28インチ砲は、松樹山、203高地、白玉山に残っていますが、松樹山、203高地はレプリカです。松樹山の方が本物みたい?です。白玉山は土台が残っています。3つ共に日露戦争が終わり記念として持って来た物です。写真3-1-17現在の松樹山のレプリカ(本物は砲身が短い)、松樹山には28インチ砲はなかった。写真3-1-18現在の203高地(レプリカ)、28インチ砲は203高地から撃ったのではありません。203高地を観測所として高崎山の麓から撃ったのです。写真3-1-19白玉山の28インチ砲台。日露戦争の後に記念としてここに置ました。写真3-1-20現在の白玉山の土台と本体、少しずれていますが本体には砲台はありません。左上に白玉山塔がありますが、写真は木で見えません。写真3-1-21写真3-1-19を逆から見たもの。

南山坡山から旅順港のロシア東洋艦隊が見える為、28インチ砲で爆撃を開始する。ロシア東洋艦隊にも大きな打撃があったが、大本営と海軍は信用せず。写真3-1-22

確かに写真3-1-23「9月25日南山坡山より観測」をみると、被弾した7隻の場所は68-3とは違うが、写真3-1-24・10月25日観測をみると、写真3-1-25とはほとんど同じ(赤線)、ギリヤーク・バヤーン(青線)だけ違う。おそらく、ギリヤーク、バヤーンだけ被弾せず、南山坡山の28センチ砲で残りは被弾したのではないかと思われる。とすると、ロシア東洋艦隊はこの時点で7隻の内5隻が被弾し自由航行できなかったと考えられる。

10月26日
北盤龍山北(鉢巻山)占領(第9師団、金沢)写真3-1-26写真3-1-27現在の写真、写真3-1-28碑。

大本営と海軍は、先ずは203高地を占領すべきと提言、乃木は、「先ずは東鶏冠山、二龍山、松樹山の占領する」として、大本営の意見に反対する。乃木は方針を変え地上戦では戦わず、地下塹壕を掘り進み堡塁爆破する方法を取った。

10月26日
第2回旅順攻撃、戦死者1,016人、負傷者6,707人、ロシア戦死者約600人、負傷者約4,500人(〜31日)。写真3-1-29映画二百三地。

乃木は、第1師団松樹山椅子山、第9師団二龍山松樹山、第11師団東鶏冠山を目標に変える。占領したのは一戸(盤龍山P堡塁)、瘤山のみ。

10月27日
東鶏館山北堡塁地下塹壕で爆破するも占領には至らず(第11師団、高知、松山)(〜31日)。写真3-1-30位置図、写真3-1-31・10月30・31日の爆破口の写真、写真3-1-32現在の爆破口の写真。

一戸堡塁

10月30日
一戸(盤龍山P)堡塁占領(第9師団・富山、後備第4旅団大阪)。写真3-1-33

大発見!一戸堡塁はなくなったと言われていました…、ありました!写真3-1-34写真3-1-35現在の写真。山の中を奥深く入った場所にありました。碑は崩れかけ文字は確認できませんでしたが、土台があることより一戸堡塁と確認しました。写真3-1-33写真3-1-35四角で囲ったところ、同じでは?見学の場合は問い合わせ下さい。他の旅行会社では行くことが出来ません(知りません)

10月30日
瘤山堡塁占領(第11師団)、残念ながら何も残っていません。写真3-1-36
海軍陸重砲隊司令部と攻城砲兵司令部は203高地、大案子山、小案子山、椅子山を大砲で爆撃開始。
10月31日
引き続きロシア東洋艦隊ギリヤークも爆撃。

結局、2回の総攻撃も失敗、乃木は追い込まれて行く。伊藤と山縣が東京で会談、乃木の更迭を考える。

11月7日
バルチック艦隊モロッコタンジェール港を出発。
11月8日
大本営連絡会議おいて海軍は、ロシア東洋艦隊爆破を信用出来ない、203高地を攻めるよう意見、山縣も賛成する。
11月9日
山縣から柳樹房司令部宛の電文。「旅順攻撃の重点を、203高地に変更せずして時日を経過すれば、艦隊の準備が損なわれ、我が軍に遂に救うべからざる状態を招きかねない。」
11月14日
明治天皇、御前会議で乃木の更迭を拒否、ロシア東洋艦隊攻撃を優先させ203高地を主攻を裁可されるが、乃木でなければ旅順は占領できないと話される。写真3-1-37写真3-1-38映画二百三地。

大本営の意見に対して、満州軍大山、児玉、乃木は当初これを聞き入れず。乃木は、ロシア東洋艦隊を爆破する拠点を203高地ではなく望台に置くことを決め、あくまで203高地攻めに固執しなかった。

11月20日
第7師団大連上陸。写真3-1-39大連埠頭に上陸する7師団。
11月26日
第3回旅順攻撃、戦死者5,052人、負傷者11,886人ロシア戦死者約5,300人、負傷者約5,300人(〜12月6日)。

以降、第7師団(北海道旭川・札幌)参加、計4師団。203高地(第1師団、第7師団)、二龍山(第9師団)、東鶏冠山・望台(第11師団)を攻撃するが失敗。

11月26日夜、中村少将隊長は白襷隊を混成で編成(3,105人中第7師団25連隊は1,565人)、松樹山第4(補備)砲台を攻めるも失敗、全滅。旅順攻囲戦の中で一番の犠牲者。中村は負傷して日本に帰る(旅順 中村町=旅順大和ホテルの場所はその名前から取る)。写真3-1-40写真3-1-41映画二百三地、写真3-1-42写真3-1-43写真3-1-44現在の写真。

乃木は3回攻撃も最初からつまずいた。塹壕から堡塁爆破する作戦は堡塁が強固過ぎて爆破出来なかった(一部爆破)。結局、大山、児玉、乃木は大本営の意見を聞き入れ、203高地の地上戦に入る。

11月27日
乃木は目標を二龍山・東鶏冠山を攻めるのを一時中止、大本営の指導により、28インチ砲を203高地に向け砲撃、第1師団、第7師団による203高地を攻める事を承諾する。

乃木の命令
軍は一時、本攻撃正面における攻撃を中止し、203高地を攻撃せんとす。写真3-1-45映画二百三地。203高地は東北、中央、西南、老虎溝の4山がある。写真3-1-46

11月28日
203高地に第7師団参加、203高地30日東北・西南を占領するが、12月1日奪い返される。写真3-1-47
11月30日
乃木の次男乃木保典少尉(後備歩兵第1旅団)が203高地東北近くで、伝令を伝えて戻る際に戦死する。現在203高地にあるのは偽物で、ある場所も違う。本当の場所は、203高地と南山坡山の間にあり土台が残っています。写真3-1-48映画二百三地。写真3-1-49写真3-1-50現在の写真、全体に文字が細い、死の"一"が明らかに違う。写真3-2-1現在、資料博物館に一部残っている。

乃木、203高地攻めに司令官みずから先頭指揮に立ち最後の突撃を行うと指示、死ぬことを覚悟。

12月1日
児玉、柳樹房司令部に来る。バルチック艦隊がもうすぐ来ると伊地知始め幹部を叱責する(写真3-2-2映画二百三地)。その後、高崎山を視察し乃木と出会う。柳樹房司令部で会談。児玉は「乃木司令官みずから指揮をとり203高地を攻撃する」と言う計画をやめるよう説得。乃木、思いとどまる。児玉が第3軍の指揮官に入れるよう頼む。写真3-2-3映画二百三地。
12月2日
児玉が各師団長他幹部に、東北方面の重砲隊(28インチ砲)を高崎山に移し、203高地集中的に攻める決定をする。写真3-2-4写真3-2-5写真3-2-6写真3-2-7映画二百三地。
12月4日
203高地攻撃開始。
12月5日
203高地占領(西南=幡道子山、東北、中央の3山)、第1師団 東京・高崎、後備第1旅団 東京、第7師団 旭川。死傷者約2,800人、ロシア約1,500人。

西南、写真3-2-8映画二百三地、写真3-2-9現在の写真。東北、写真3-2-10映画二百三地、写真3-2-11現在の写真。中央、写真3-2-12映画二百三地、写真3-2-13爾霊山の塔、写真3-2-14現在の写真乃木の漢詩が削られている塔の前の香炉、1935年設置・下に「二千百十名戦死之所」書いてあった、現在資料博物館にあります、写真3-2-15陸軍大将乃木希典書が削られている。香炉がある写真、写真3-2-16現在乃木の漢詩、乃木希典書が削られている、写真3-2-17乃木の漢詩、12月11日作った漢詩。

203高地西南から旅順湾内のロシア東洋艦隊を28インチ砲で攻撃、5〜7日の爆撃でロシア東洋艦隊8隻全滅。沈没したのではない、爆撃で傾き航行不能になる。写真3-2-18映画二百三地、写真3-2-19現在の写真、写真3-2-20実際にロシア東洋艦隊が全滅した写真、バヤーン、アムールは東港の中。

8隻の内6隻は、戦艦ボーベダは戦艦周防、ボルタワは丹後、レドウィザンは肥前、べレスウェートは相模、巡洋艦バルラーダは津軽、バヤーンは阿蘇に改修、ギリヤークは解体された。写真3-2-21、戦艦周防に変わったボーベダ、写真3-2-22ボベータ・バルラータ、写真3-2-23べレスウェート・ボルタワ、写真3-2-24ギリヤーク、写真3-2-25レドウィザン、写真3-2-26東港の中のバヤーン。写真3-2-26-1現在の写真、写真3-2-26-2建物A、写真3-2-26-3建物B、写真3-2-26-4建物Cコントラチェンコ邸=後の関東州長官邸、写真3-2-26-5アムール、写真3-2-26-6現在の写真(A,Bは現在も残っている)。写真3-2-27写真3-2-28裏に「日本軍重砲兵観測書之位置」がある203高地南西、写真3-2-29現在の写真。日本軍重砲兵観測書之位置の碑は無くなりました。

12月6日
老虎溝(赤坂)山占領(第1師団 赤坂)、4山合わせて203高地全体占領。写真3-2-30写真3-2-31現在の写真、写真3-2-32当時流行った「203高地髷」。児玉、遼陽満州軍総司令部に戻る。
1、7師団引き続き、大案子山堡塁(写真3-2-333-2-34現在の写真)、小案子山砲台・第2砲台(写真3-2-35写真3-2-36写真3-2-37写真3-2-37-1写真3-2-37-2現在の写真、日本軍の弾痕の跡が残っている)、椅子山堡塁(写真3-2-38写真3-2-39写真3-2-40現在の写真、弾痕の跡が残っている)を攻める。

小案子山堡塁・砲台
写真3-2-41の堡塁内の日本軍の弾痕の跡は東鶏山北堡塁、椅子山堡塁とここにしか残っていない貴重な場所です。特に小案子山は日露戦争後誰も日本人が来ることもなく、日露戦争のまま残っている、堡塁・砲台です。訪れる場合は当社まで問い合わせ下さい

堡塁の落書き
日露戦争後、旅順は関東州日本(日本の植民地)になり、修学旅行のメッカでした。名もない堡塁には今も学生の落書きが残っています。当社しかしりません訪れる場合は当社まで問い合わせ下さい。落書きは、白銀山、模珠礁、椅子山、大案子山、小案子山、二登子山、磨盤山、孫家溝、老タ山、牛角山、堡塁・砲台にあります。
 写真3-2-42大正10年(1921年)5月16日山下満男
 写真3-2-43大正10年6月20日
 写真3-2-44昭和7年(1933年)7月石田
 写真3-2-45昭和9年(1935年)9月1日須藤
 写真3-2-46北海道北見中
 写真3-2-47旅順高
 写真3-2-48大日本
 写真3-2-49東大
 写真3-2-50富山縣

12月10日
東鶏冠山北堡塁、再度戦闘開始。
12月15日
東鶏冠山北堡塁で旅順要塞陸上防備司令官コントラチェンコ少将、28インチ砲で爆死。写真3-3-1戦碑とコントラチェンコ戦死の所、写真3-3-2現在の写真、写真3-3-3戦死の所の碑(赤)が建つ前の写真。
12月16日
203高地占領の後、正面要塞(二龍山・東鶏冠山・松樹山)の総攻撃を始める。引き続き坑道を掘りはじめる。
12月18日
東鶏冠山北堡塁占領(第11師団、高知、松山)。2トンの爆弾で胸壁爆破。写真3-3-4突撃時、写真3-3-5現在の写真、写真3-3-6ロシア胸壁(ガボニエール)爆破時(11月26日)。

東鶏冠山北堡塁
東鶏冠山には、北堡塁、第1堡塁=吉永堡塁、第2堡塁、砲台、南堡塁、第1〜4砲台がある。
 写真3-3-9全体図。B爆破口から矢印の方向に日本軍侵入。A写真3-3-1、C写真3-3-10
 写真3-3-11写真図
 写真3-3-12矢印の方向に日本軍侵入。ロシア軍A・B、2方向から鉄砲、D高射砲、E大砲を撃つ。Cは露
 軍地下通路。
 写真3-3-13・10月30・31日の日本軍爆破口(写真3-1-30)。
 写真3-3-14地図。
 写真3-3-15現在の写真。
 写真3-3-16現在のロシア砲台。
 写真3-3-17上記1904年11月4日の写真。
 写真3-3-19写真3-3-12を越えてまた難問、2階建ての露軍兵舎から鉄砲(機関銃)の攻撃。日本軍
 矢印。
 写真3-3-20映画二百三地。
 写真3-3-21写真3-3-18の写真。
 写真3-3-21現在の写真。
 写真3-3-22写真3-3-1の現在の戦碑。
 写真3-3-23
 写真3-3-24碑文。
 写真3-3-25医務室、厨房。
 写真3-3-26現在の写真。

12月18日
吉永(Q)堡塁占領(第11師団、高知)、写真3-3-27現在の写真(撮影中)。
12月18日
東鶏冠山堡塁(砲台)占領(第11師団、松山、丸亀)、写真3-3-28写真3-3-29現在の写真(撮影中)。
12月20日
柳樹房司令部に海軍の東郷、秋山(弟)他が激励に訪れる。写真3-3-30
 後列
  渡邊管理部長、津野田参謀、吉岡高級副官、河西参謀、松平副官、福島副官、安原参謀
 中列
  奈良攻城砲兵司令副官、斎藤参謀、白井参謀、黒井海軍陸戦重砲隊司令官、飯田海軍参謀、秋山  海軍参謀、山岡参謀、伊集院参謀、兼松副官
 前列
  大庭参謀副長、吉田経理部長、伊地知参謀長、東郷海軍大将、乃木大将、落合軍医部長、榊原工   兵部長、岩村参謀
12月28日
二龍山堡塁占領(第9師団 敦賀・鯖江、第7師団 旭川)、5本の坑道、3トンの爆薬を使う。写真3-3-31映画二百三地、写真3-3-32位置図(赤写真3-3-34)、写真3-3-33写真3-3-34現在の写真。
12月31日
松樹山堡塁占領(第1師団 佐倉・高崎、第7師団 旭川)、7トンの爆薬を使う。写真3-3-35(爆破した瞬間)、写真3-3-36位置図、写真3-3-37爆破口、写真3-3-38現在の爆破口、写真3-3-39現在の写真。

3大堡塁、東鶏冠山・二龍山・松樹山 占領。