大連世界旅行社


1904年中期


5月1日
第3軍司令部、東京陸軍大学に設置される。今の東京都港区青山中学校跡地。写真2-1-1

第3軍の目的は、旅順を占領し、1,2軍と合流、奉天を攻めることにあった。
乃木始め第3軍幹部が揃う。写真2-1-2映画二百三地。
 参謀長
  伊地知少将
 参謀副長
  大庭中佐
 第1参謀
  白井少佐(作戦)
 第2参謀
  山岡少佐(情報)
 第3参謀
  井上少佐(兵站)
その時児玉と会う。乃木と児玉は長州出身で昔からの親友。旅順攻撃(日清戦争では1日で占領、死者280名、秋山好古(兄)活躍)を終えて早く奉天会戦に来てくれと激励する。写真2-1-3映画二百三地。

第1軍黒木司令官、鴨緑江を渡り九連城(丹東)を占領、写真2-1-4鴨緑江会戦。写真2-1-5鴨緑江戦蹟(現在、丹東=昔は安東)。文化大革命時に壊されそうになるが地元有志により守られました。写真2-1-5-1大正5年(1916年)10月 満州戦蹟保存会と書いてある。以下、日本の戦蹟(南山、大頂子山、高崎山、南山坡山、二龍山、松樹山、松樹山第4砲台、東鶏冠山北、盤龍山北、盤龍山西、盤龍山東、他)がある所は必ず満州戦蹟保存会の碑がある。第1軍黒木大将の碑があるのはここだけです。他の旅行会社では行くことが出来ません(知りません)

5月3日
3回旅順閉塞作戦終了。新発田丸、小倉丸、朝顔丸、三河丸、遠江丸、釜山丸、江戸丸、長門丸、小樽丸、佐倉丸、相模丸、愛国丸。閉塞作戦は失敗。

閉塞作戦は74名の犠牲者を出し失敗する。海軍は陸軍の旅順参戦を認めざる得なくなった。日本軍は、旅順を陸上から占領しロシア東洋艦隊を全滅させる方法を取った。海軍は旅順口外からロシア東洋艦隊を見守る。

5月5日
第2軍奥司令官、貔子窩(ひしか)、現在の皮口に上陸。写真2-1-6現在の写真。写真2-1-7第2、3軍の経路。
5月12日
陸軍第1、2軍を守っていた海軍第3艦隊は、不慮の事故により2隻(水雷艇、通報艇)を失い、5月15日までには、湯島、吉野、初瀬、大島、暁、八島、宮古7隻を失った。これで日本連合艦隊:ロシア東洋艦隊は4:6になる。
5月25日
第2軍金州城占領。秋山好古少将は第2軍騎兵第1旅団長活躍。写真2-1-8秋山支援隊(首山堡の戦いより編成)。
5月26日
第2軍金州南山占領。写真2-1-9映画二百三地。写真2-1-10南山戦績、正面に戦績保存会の石碑があった。写真2-1-11現在の写真(戦蹟の土台が残っています)。写真2-1-12日露戦争後南山神社建立、写真2-1-13現在南山神社、鎮魂碑は残っていません。写真2-1-13-1近くに金州神社がありました。写真2-1-13-2今の写真。
5月27日
第2軍乃木の長男勝典ロシア軍の流れ弾に当たり野戦病院で戦死。写真2-1-14乃木勝典戦死の場所地碑(1928年妻が建てた)、写真2-1-15現在はありません。
5月30日
宇品で乃木、勝典の戦死を聞く。写真2-1-16映画二百三地。
乃木は写真館で写真を撮る。写真2-1-17映画二百三地、写真2-1-18左手に2人の息子の写真を持つ、写真2-1-19その写真・左勝典右保典。
ロシア軍旅順に逃げる。第2軍大連無血占領。
6月1日
乃木他第3軍宇品港(広島)出発。写真2-1-20映画二百三地。
6月6日
乃木、大連湾帳家屯塩大澳(えんだいおう)に上陸(現在城子村)、大将に昇格(児玉、東郷と同じく)。写真2-1-21第2、3軍の経路。
6月7日
乃木、金州南山に行く。そこで長男勝典を思い漢詩を読む。写真2-1-22裏に戦蹟が隠れている(赤)・7-2(青)は現在残っている部分、写真2-1-23旅順資料博物館所蔵、写真2-1-24現在の写真(南山戦蹟の中腹に土台が残っています)、写真2-1-25乃木漢詩。

金州南山
金州の南にある小さい山(116.6m)。日露戦争の激戦地。死傷者日本軍約4,300名、ロシア軍ロシア軍約1,400名。写真2-1-26南山攻撃図。
日露戦争時 第1〜15砲台(露軍)・第1〜9堡塁(露軍)・中央堡塁(露軍)、日露戦争の後 南山戦績、乃木漢詩碑、昭忠碑(写真2-1-27現在碑はありません)、南山神社、鎮魂碑(写真2-1-28現在碑はありません)、露墓地(写真2-1-29写真2-1-30現在の写真)がありました。
今残っているのは、南山戦績の土台、乃木漢詩碑の土台、南山神社の鳥居の土台、露墓、昭忠碑の土台です。
堡塁は第1〜9・中央まで、=第3、8、9、中央が残っています。砲台は第1〜15まで、=第1、2、3、15は消滅、後は残っています。写真2-1-31第7砲台・第8堡塁、写真2-1-32現在の写真。
ソ連烈士記念塔 大連長者町にあったが1953年金州ソ連警備司令部前に移り、2004年現在の場所になった。もともと南山神社の鳥居があった場所。写真2-1-33

6月8日
第3軍司令部(乃木司令部)大連に設置。写真2-1-34写真2-1-35現在の写真。

第3軍は約5万人、第1師団 関東・東京、第9師団 北陸・金沢、第11師団 四国・善通寺の3師団が中心(第3回攻撃より第7師団追加)、他に後備歩兵第1旅団 東京、後備歩兵第4旅団 大阪、野戦砲兵第2旅団 東京、攻城砲兵司令部、攻城特種部隊、後備工兵隊 東京・名古屋・小倉、海軍陸重砲隊 など。

第3軍組織図
 司令官
  乃木大将
 司令官付副官
  松平大尉
 参謀長
  伊地知少将
 参謀副長
  大庭中佐
 作戦参謀
  白井少佐
 情報参謀
  山岡少佐
 兵站参謀
  井上少佐
 参謀
  安原大尉、津野田少佐(大尉)、菅野少佐(大尉)
 砲兵部長
  豊島少将
 工兵部長
  榊原大佐
 第1師団
  松村中将師団長
  歩兵第1旅団−第1連隊(東京)
  松本少将旅団長第15連隊(高崎)=群馬
  歩兵第2旅団−第2連隊(佐倉)=千葉
  中村少将旅団長−第3連隊(東京・麻布)
  騎兵隊第1連隊他
 第7師団
  大迫中将師団長
  歩兵第13旅団−第25連隊(札幌)
  吉田少将旅団長−第26連隊(旭川)
  歩兵第14旅団−第27連隊(旭川)
  斎藤少将旅団長−第28連隊(旭川)
  騎兵第7連隊他
 第9師団
  大島中将師団長
  歩兵第6旅団−第7連隊(金沢)=石川−小賀少尉(映画二百三地主演あおい輝彦)写真2-1-36
   小賀。
  一戸少将旅団長−第35連隊(連隊は金沢にあったが、富山出身者で編成)
  歩兵第18旅団−第19連隊(敦賀)=福井
  平佐少将旅団長第36連隊(鯖江)=福井
  騎兵第9連隊他
 第11師団
  土屋中将師団長(1904年12月鮫島中将師団長)
  歩兵第10旅団−第22連隊(松山)=愛媛
  山中少将旅団長 第44連隊(高知)
  歩兵第22旅団−第12連隊(丸亀)=香川
  神尾少将旅団長 第43連隊(徳島)
  騎兵第11連隊他
 後備歩兵第1旅団(東京)
  隠岐少将、乃木保典少尉
 後備歩兵第4旅団(大阪)
  武内少将
 後備工兵隊(東京、名古屋、小倉)
 野砲兵第2旅団(東京・市川=千葉)
  永田少将旅団長
 攻城砲兵司令部
  豊島少将(砲兵部長)
 攻城特種部隊
 海軍陸重砲隊司令部
 黒井中佐
 写真2-1-37第1師団司令部前
 写真2-1-38第9師団司令部前
 写真2-1-39第11師団司令部前
 写真2-1-40攻城砲兵司令部前
 写真2-1-41第3軍柳樹房司令部前幹部(10月9日撮影)
 写真2-1-42写真2-1-43第3軍幹部
 写真2-1-44海軍陸重砲隊司令部、黒井中佐

参謀本部報告
旅順の設備は清の時代の旧式の陣地に、壕を多少増築させるのみ、永久築城なしと思う。

6月20日
大本営参謀総長に山縣元帥、満州軍総司令官に大山元帥、総参謀長に児玉大将、を任命。満州軍総司令部設置(東京皇居内)。
6月23日
旅順港外で日本艦隊、ロシア東洋艦隊と交戦。
6月25日
第3軍大連より進軍する。
6月26日
老横山(剣山=占領した将士が第43歩兵連隊徳島の兵士であることより、乃木が命名。)、歪頭山占領するも奪い返される。
7月6日
ロシア軍と一進一退をくり返すが、剣山、歪頭山占領(第11師団)。写真2-1-45剣山、写真2-1-46碑は旅順資料博物館所有、写真2-1-47現在の写真。

剣山
乃木が大連に入り最初に占領した場所です。現地名は老横山と呼ばれていましたが、乃木が占領した兵士が徳島県の連隊であることより、徳島の名山=剣山と名づけました。
写真8-1の記念碑の下には、「明治37年(1904年)6月26日に第11師団歩兵第43連隊が占領、奪い返せるも7月占領す。乃木大将が上記により阿波の名山、剣山と名づける。大正15年6月 陸軍大将 白川義則 誌。…要約。」と書いてあり、大連、旅順の徳島県の人達が義援金を集めこの碑を建てました、昭和9年(1934年)9月25日竣工。

7月13日
裡長山島(現在大長山島)で大山総司令官、児玉総参謀長が東郷連合艦隊司令長官と会見、現状の把握をする。
7月14日
写真2-1-48満州軍総司令部、東京から大連に移る。写真2-1-49現在の写真。
7月15日
児玉、乃木、福島、伊地知が大連満州総司令部で会う。写真2-1-50映画二百三地。
7月18日
大連満州総司令部で大山、児玉、伊地知が会談、7月25日より旅順前線の攻撃開始を決める。
7月19日
写真2-2-1鳳凰山の視察。写真2-2-2現在の写真(4画の部分、表裏逆から撮った写真)。
7月21日
旅順の砲撃を開始、8月末には旅順占領することを大本営に報告する。
7月26日
営城子(第9師団)、偏石柳子(第9師団)、老座山(第11師団)占領。
7月29日
双溝台(第1師団)、安子嶺占領(第9師団)。

ロシアは7年の歳月要し旅順要塞を築く。大砲646門、主要堡塁52ヶ所、守備兵約42,000名、世界一の要塞を築く。二龍山を中心として西の松樹(しょうじゅ)山、東の東鶏冠山は旅順3大堡塁。写真2-2-3旅順・写真2-2-4現在の写真、写真2-2-5松樹山、写真2-2-6二龍山、写真2-2-7東鶏冠山、写真2-2-8コントラチェンコ少将、写真2-2-9実物、写真2-2-10コントラチェンコ官邸の写真、写真2-2-11現在の写真、写真2-2-12写真2-2-13写真2-2-14映画二百三地。

ロシア軍堡塁
写真2-2-15旅順のロシア軍の堡塁は、同じ形、三角形(現在の東鶏冠山北、大案子山、小案子山、椅子山堡塁参考)。写真2-2-16入口、写真2-2-17右、写真2-2-18左、写真2-2-19中、写真2-2-20右、写真2-2-21左。地上1階(倉庫、弾薬室など)、地下1階(兵舎、宿泊施設など)になっています。写真2-2-22兵舎。会議室、兵舎がありました。写真2-2-23砲台。数十キロまで打てる砲台。写真2-2-24塹壕入口。写真2-2-25写真2-2-26通路。右左からロシアの機関銃が飛んで来ました(当時ロシア軍は最新の機関銃を使用、日本軍は使用せず)。

柳樹房司令部
写真2-2-27第3軍の旅順攻囲戦の司令部は柳樹房にありましたが、現在の位置を地元の人に聞き発見しました。ここで乃木、伊地知他が作戦を考えました。第3軍柳樹房司令部設置、旅順攻囲戦を開始する。写真2-2-28、中央から左が司令部。写真2-2-29現在の写真、黒の部分にありました、写真2-2-30現在柳樹房司令部は、京都の乃木神社に移築されています、写真2-2-31移築された時の写真。写真2-2-32第3軍司令部駐屯地碑は資料博物館にあります。写真2-2-33各師団占領位置図。

7月30日
于大山占領(第1師団)。写真2-2-34現在の写真。
鳳凰山占領(第1師団)。写真2-2-35現在の写真。

大本営総参謀長山縣、長岡参謀次長、井口満州軍参謀が会談、山縣が井口に203高地を攻める方が得策と旅順まで行き伝える事を命ずる。写真2-2-36映画二百三地。
柳樹房司令部で井口、乃木、伊地知、海軍参謀他が会談。
この時乃木には、二龍山と東鶏冠山には12の砲台(松樹山1、2、3、4、盤龍山1、2、3、望台、東鶏冠山1、2、3、4)があり、各砲台は塹壕で連絡できる近代的大要塞になっているとの情報が入る。
乃木は井口(大本営)の提案を断る。

8月8日
大孤山占領(第11師団、丸亀)、ここからの観測で海軍陸戦重砲隊(黒井中佐指揮)に連絡、火石嶺から旅順旧市街の砲撃開始、ロシア東洋艦隊を旅順から追い出すことを目的とした。写真2-2-37

海軍陸戦重砲隊の司令部は火石嶺、大頂山(211高地)に置いた。海軍陸重戦砲隊は旅順攻囲戦の勝利に重要な役割を果たした。写真2-2-38、8月10日海軍陸戦重砲隊が長嶺子付近を通る。写真2-2-39大頂山、写真2-2-40海軍富士型砲台。
ロシア東洋艦隊を旅順からウラジオストックに帰る準備を始める。

8月9日
小孤山占領(第11師団、徳島)、写真2-2-41
8月10日
ロシア東洋艦隊ウラジオストックに帰る為、旅順港を出る。黄海海戦、日本艦隊とロシア東洋艦隊交戦。日本軍勝利、ロシア艦隊旅順港に逃げ帰る。日本軍、黄海の制海権を持つ。

高崎山(164高地)
高崎山は旅順攻囲戦の最初の日本の碑(一番北)があるところです。必見です

8月15日
高崎山(164高地)占領(第1師団、高崎)。

高崎山は第1師団高崎連隊が占領、その名前をとって高崎山と名づけました。第1、7師団司令部もありました。写真2-2-42写真2-2-43現在の写真、写真2-2-44正面。写真2-2-45左、写真2-2-46右、写真2-2-47裏を要訳すると「第3軍主力隊は此処から203高地を目指す。乃木大将が1904年夏8月に占領し標石を建設した場所は此処から三歩の所である。」、写真2-2-47-2、標石は資料博物館展示、写真2-2-48、日本軍重砲兵観測所が建っていた場所、現在の写真・土台だけ残っています。写真2-2-49、高崎山から見た203高地。高崎山、大頂子山、南山坡山(なまこ山)は車から1時間位歩きます。雑草・木、虫等の為、10月〜4月にしか行けません。他の旅行会社では行くことが出来ません(知りません)

大本営と海軍の強い要請があり、陸軍旅順攻撃が始まる。

乃木は203高地に固執せず、松樹山、二龍山、東鶏冠山いずれかの山を占領し、そこから旅順港に見えるロシア東洋艦隊を爆破させる策を取った。

8月19日
第1回旅順攻撃。第1師団 大頂子山・水師営南方、第9師団 盤龍山東・西・龍眼北方・望台、第11師団 東鶏冠山 を攻める。戦死者5,017人、負傷者10,843人(全体の7割以上)、ロシア戦死者約1,500人、負傷者約4,500人(〜24日)。写真2-2-50映画二百三地。
大頂子山攻撃失敗(第1師団)・写真2-3-1写真2-3-2映画203高地、水師営南方堡塁攻撃失敗(第1師団)・写真2-3-3写真2-3-4映画203高地、龍眼北方堡塁攻撃失敗(第9師団)・写真2-3-5写真2-3-6映画二百三地、東・西盤龍山(第9師団)・望台(第11師団)攻撃失敗・写真2-3-7写真2-3-8映画二百三地。

大頂子山(174高地)

8月20日
大頂子山占領(第1師団・高崎、後備第1旅団・東京)、写真2-3-9写真2-3-10写真2-3-11裏、現在の写真。
8月21日
東鶏冠山北堡塁攻撃失敗(第11師団)、写真2-3-12写真2-3-13写真2-3-14写真2-3-15映画二百三地。
日本海軍、ロシア東洋艦隊に砲撃(対馬、千歳)。

大頂子山、南山坡山(なまこ山)は車から1時間位歩きます。雑草・木、虫等の為、10月〜4月にしか行けません。他の旅行会社では行くことが出来ません(知りません)

東・西盤龍山

8月22日
盤龍山東占領(第9師団・敦賀、後備第4旅団・大阪)、写真2-3-16写真2-3-17現在の写真、写真2-3-18碑。他の旅行会社では行くことが出来ません(知りません)。盤龍山西占領(第9師団、敦賀・蟹江)、写真2-3-19写真2-3-20現在の写真。他の旅行会社では行くことが出来ません(知りません)
8月23日
東鶏冠山北堡塁から望台砲台に攻撃目標移すが失敗(第11師団)。日本海軍、旅順湾のロシア艦隊に砲撃(春日、日進)。

第1回攻撃、5つの連隊が大打撃を受け、占領したのは大頂子山、東・西盤龍山のみ。乃木は参謀本部に、「強襲もって旅順要塞を占領することは不可能」と打電する。