大連世界旅行社


1906年以降


1906年

1月7日
乃木鎌倉丸に乗り大連港を出る。鎌倉丸はステッセル中将を長崎に護送した船。写真5-1
1月10日
乃木始め第3軍幹部が宇品に凱旋帰国。写真5-2
1月14日
乃木一行新橋駅に凱旋、皇居に入る。写真5-3新橋駅前の凱旋門、写真5-4写真5-5
日露戦争の御前軍上報告。写真5-6映画二百三地。
明治天皇の前で乃木が復命書を読み上げる。写真5-7映画二百三地。
乃木、多大なる犠牲を出した事を詫びる。写真5-8写真5-9写真5-10映画二百三地。

復命書
明治三十七年五月、第三軍司令官たる大命を拝し、旅順要塞の攻略に任じ、六月剣山(写真5-11)を抜き、七月敵の逆襲を撃退し、次いでその前進陣地を攻陥し、鳳凰山(写真5-12)及び于大山(写真5-13)の線に進み、以て敵を本防禦線内に圧迫し、我が海軍の有力なる協同動作と相須ちて旅順要塞の攻囲を確実にせり。

八月大孤山(写真5-14)及び高崎山(写真5-15)等を陥る。
次いで強襲を行い、東西盤龍山(写真5-16写真5-17)の二塁を奪い、爾後正攻を以て攻撃を続行し、逐次要塞に肉薄し、十一月下旬より十二月上旬に亘り二〇三高地(写真5-18)を力攻して遂にこれを奪取し、港内に蟄伏せる敵艦を撃沈せり。

既にして攻撃作業の進捗に伴い、その正面の三永久堡塁(写真5-19写真5-20写真5-21)を占領し、直ちに望台(写真74-3)付近一帯の高地に進出し、将に要塞内部に突入せんとするに当り、三十八年一月一日、敵将降を請い、茲に攻城征戦の終局を告げたり。

時に北方における彼我両軍の首力は沙河付近に相対し、戦機正に熟し軍の北進を待つこと急なり。
因って一月中旬行進を起し、二月下旬遼陽平野に集中し、直ちに運動を開始して奉天付近の会戦に参与し、全軍の最左翼にありて繞回運動を行い、逐次敵の右翼を撃破し、奉天西北方邁進してその退路に迫り連戦十余日、なお敵を追躡して心台子、石仏寺の線に達し、一部を進めて昌図及び金家屯付近を占領せしめたり。

五月、各軍と相連なり金家屯、康平の戦を占め、ついで敵騎大集団、わが左側背に来襲せしもこれを駆逐し、ここに軍隊の整備を終わり戦機の熟するを待ちしが、九月中旬休戦の命を拝するに至れり。

これを要するに本軍の征戦目的を達するを得たるは、陛下の御稜威と上級統帥部の指導並びに友軍の協力とに頼る。

而して作戦十六か月間、我が将卒の常に勁敵と健闘し、忠勇義烈死を視ること帰するが如く、弾に斃れ剣に殪るる者皆、陛下の万歳を喚呼し欣然と瞑目したるは、臣これを伏奏せざらんと欲するも能わず。

然るにかくの如き忠勇の将卒を以てして、旅順の攻城には半歳の長日月を要し、多大の犠牲を供し、奉天付近の会戦には攻撃力の欠乏に因り、退路遮断の任務を全うするに至らず、また敵騎大集団のわが左側背に行動するに当り、これを撃摧するの好機を獲ざりしは臣が終生の遺憾にして、恐懼おく能わざる所なり。

今や闕下に凱旋し、戦況を伏奏するの寵遇を担い、恭しく部下将卒とともに天恩の優渥なるを拝し、顧みて戦死病没者にこの光栄を分つ能はざるを傷む。

ここに作戦経過概要、死傷一覧表並びに給与及び衛生一般等を具し、謹んで復命す。

明治三十九年一月十四日
第三軍司令官
男爵
乃木希典

乃木の言葉
幾万の将卒を犠牲としたることの
哀しくもまた恥かしく慙づかしく
今更何の面目あって
諸君と相逢ふの顔かあらん。

明治天皇、乃木の傍らに近寄る。写真5-22写真5-23写真5-24映画二百三地。

7月23日
児玉急死

1909年

10月26日
伊藤暗殺

1912年

7月30日
明治天皇崩御
9月13日
乃木夫妻自刃。写真5-25、亡くなる直前の乃木静子夫人、写真5-26写真5-32乃木遺書。

乃木の墓。東京乃木神社にある。写真5-33写真5-34
その隣、勝典、保典の墓。写真5-35
乃木神社にある水師営の棗の孫木。写真5-36

これは203高地の映画を基にして作成しました。
2009年から2011年の3年間に亘って、司馬遼太郎の「坂の上の雲」がテレビで放送されていました。
このコーナーではそのままの歴史的事実を紹介しました。
司馬遼太郎の乃木の思いは…、乃木は無能だったのでしょうか?
お客様一人一人考えてみてはいかかでしょうか。