大連世界旅行社


1904年前期


1904年

1月

枢密院議長 伊藤博文(森繁久弥)、元老 山縣有朋、参謀総長 大山厳、総理大臣 桂太郎、陸軍大臣 寺内正、海軍大臣 山本権兵衛、外務大臣 小村寿太郎(写真1-1、大連の電気遊園地に銅像がありました)他、元老閣僚会議。日露戦争の事で話し合う。伊藤はロシアとの戦争回避を望む。

1月12日
御前会議召集、明治天皇ロシア皇帝に電報打って日露戦争を回避しようとするが、ロシア側は何の返事もなかった。

2月
伊藤と参謀本部次長児玉源太郎(丹波哲郎)会食(両者とも長州出身)、児玉が日露戦争を強く薦める。写真1-2・写真1-3映画二百三地。

2月4日
明冶天皇(三船敏郎)と伊藤会談。写真1‐4映画二百三地。続いて御前会議召集、日露戦争決まる。写真1‐5・写真1‐6映画二百三地。
2月6日
日露断交、日露戦争開始。

国家の歳入
 ロシア20億円
 日本2億5千万円
常備兵力
 ロシア300万人
 日本20万人

旅順の占領の目的は、バルチック艦隊が日本海に現れる前に旅順のロシア東洋艦隊を全滅させることにあった。
ロシアからするとバルチック艦隊と東洋艦隊が合流し、日本海において日本艦隊を破るつもりだった。

2月8日
日露戦争、日本海軍旅順奇襲で始まる。日本陸軍第1軍韓国仁川港上陸。
2月9日
ロシア、日本に対し宣戦布告。
2月10日
日本、ロシアに対し宣戦布告。
2月11日
大本営設置

当初海軍は陸軍の助けを借りず旅順を占領(ロシア東洋艦隊全滅)しようと考えた。東郷平八郎連合艦隊司令官と秋山真之参謀(中佐)が旅順閉塞作戦を始める。写真1-7三笠、写真1-8連合艦隊司令部の戦艦三笠での集合写真、中央が東郷、右端が秋山。閉塞作戦とは、旅順港の入り口に船を沈めロシア東洋艦隊を旅順港の中に閉鎖する作戦。兵士は船を沈め小型船カッターで帰る。写真1-9閉塞作戦の地図、写真1-10戦艦朝日(広瀬、水雷長にて乗船)。

2月24日
1回旅順閉塞作戦、失敗、報国丸(広瀬乗船)、天津丸、仁川丸、武揚丸、武州丸。写真1-11戦艦朝日の船上(広瀬少佐は朝日の水雷長)、広瀬少佐の乗った報国丸の乗組員、カッターで帰るも閉塞することは出来なかった。写真1-12広瀬少佐。
3月14日
陸軍旅順攻撃を決定。
3月27日
2回旅順閉塞作戦、失敗、広瀬少佐はカッターで帰るときに戦死(戦死して中佐)、杉野は捕虜としてロシア軍に捕まる、福井丸(広瀬乗船)、千代丸、弥彦丸、米山丸。

千代丸=自爆、福井丸=魚雷爆破、弥彦丸=自爆、米山丸=魚雷爆破。写真1-13戦艦朝日から見た福井丸。3月19日広瀬の遺書、写真1-14写真1-15福井丸の乗組員、中央手に持っているのは大きい方広瀬少佐の肉片、小さい方は杉野上等兵曹(戦死して兵曹長)の遺髪。昔、東京の万世橋駅に広瀬と杉野の銅像が建っていました、写真1-16。銅像は広瀬、足元にひざまずくのが杉野。現在は残念ながらありません。写真1-17福井丸が沈んだ場所。写真1-18現在の写真。写真1-19資料博物館にある福井丸の錨。昔は旅順港口閉塞隊記念碑の上にありました、写真1-20写真1‐21資料博物館に展示してある記念碑の碑文、写真1-22現在の写真、残念ですが残っていません。中国海軍の敷地で入れません。

大分県竹田市の広瀬神社には、広瀬少佐が乗ったカッターが残っています、写真1-23

http://www.tudou 「広瀬中佐」で検索、歌が聴けます。

 文部省唱歌
  広瀬中佐
   1.轟くつつおと飛び来る弾丸、荒波洗うデッキの上に、闇を貫く中佐の叫び、杉野は何処杉野は居ずや
   2.船内隈なく尋ぬる三度、呼べど答えず探せど見えず、船は次第に波間に沈み、敵弾いよいよ辺りに繁し
   3.今はボートに移れる中佐、飛び来る弾丸に忽ち失せて、旅順港外恨みぞ深き、軍神広瀬その名残れど

3月27日の翌日、広瀬はロシア軍海軍に引揚られ、かつてのロシア人の恋人アリアズナの兄により確認、ロシア海軍の墓地に厳粛に埋葬されました。アリアズナは一生独身だったそうです(広瀬は日露戦争が始まる前、ロシアに留学していました。その時知り合ったのがアリアズナです)。写真1-24黄色の部分がロシア海軍の墓地、今の旅順駅裏。

4月13日
ロシア東洋艦隊マカロフ長官が日本軍の水雷に当たり戦死。写真1-25ペトロパウロウスクが水雷に当たった場所、写真1-26ペトロパウロウスク、写真1-27爆破の瞬間、写真1-28マカロフ長官。
4月30日
乃木希典中将(仲代達矢)、第3軍司令官になる。写真1-29映画二百三地。写真1-30乃木希典。